シニア起業。転職4回59歳から経営コンサルにチャレンジ66歳「私の履歴書」【2時間半】

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「シニア起業で年金支給70歳時代を生き抜く」 ※東洋経済オンライン2014年2月14日号

起業というと、ハイリスク・ハイリターンのイメージを描いて敬遠しがちだが、シニアが実践している会社運営はまったく別の形。多くのシニアの起業目的は株式公開などではなく、定年に関係なく長く働き、世の中に貢献しているという“やりがい”を感じること。したがって、起業手法は若い世代のそれとは異なってくる。前出の片桐氏によれば、「十分に準備して起業すれば、初年度から前職時代の給料と同程度の売上高を稼げることが多い」という。そこから諸経費が引かれるが、事業が軌道に乗り、売上高が伸びれば、前職時代以上の収入を得ることも不可能ではない。国の財政は悪化の一途をたどっており、将来的に年金支給は70歳程度まで引き上げられることがほぼ確実。それに伴って到来する、「70歳まで働く」時代をどう生きるか。今の会社での再雇用や別の会社への再就職とともに、「シニア起業」を第3の選択肢として考えることが、今後当たり前になってくるかもしれない。

中小企業白書によると、起業でいちばん多い年代は60−64歳。次が70代。生涯現役時代へ。

これはコメント動画。この素人さがいいですね。


転職4回59歳から経営コンサルにチャレンジした66歳「私の履歴書」

■参加資格・40代50代以上。例外認めますw
■定員10名・先着順
■18:30開場・名刺交換交流タイム
■19:00から・梅本さんの体験談+質疑応答
■懇親会・近所の居酒屋へ
■場所・名古屋市内 まもなく決定
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栢野(かやの)です。梅本さんは全国で唯一?のスポーツショップ専門コンサルタントです。現在66歳。私は梅本さんが独立した59歳の頃から傍観してましたが、その歩みはのろかった。が、まさに着実にコツコツと、努力と行動と実績を積み上げされている。のは、遠くから見ててもわかりました。福岡と名古屋ですからセミナー等で会うのは数年に1回程度。が、毎月戴くニュースレターが素晴らしい。10数通届くニュースレターの中で、読むのが楽しみなのは2つだけ。派手ではないけど、これは現場も経営者も確実にできる大事なことが毎回。いやー、指導アドバイスも素晴らしいが、梅本さんの毎年のウサギと亀の、亀のような歩みに唸っていました。このコンサルの内容と、梅本さん自身がいかにコンサルになったか。その実録をじっくり聞きたい。特に、40代50代60代の熟年世代に。と企画しました。以下は梅本さんのサイトより抜粋。
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■日本唯一のスポーツショップコンサル・梅本泰則さんプロフィール

1949年名古屋市生まれ。愛知県立明和高校・甲南大学法学部 卒後、大手スポーツ用品卸売会社入社。以来、30数年スポーツ用品業界で活躍。営業、経営企画、海外事業部門を歴任する。入社当初より、営業マンとしての頭角をあらわし、担当得意先との取引を2年間で10倍にする。リーダーシップにも優れ、入社5年目で管理職に抜擢。

大商圏への進出を次々とまかされ、新規顧客獲得に奔走する。その後、経営企画室室のヘッドとなり、全社の経営改革に携わる。中期経営計画の策定プロジェクトを推進し、事業再構築に尽力。経営改革の一端として、アメリカスポーツブランド総代理店事業を立ち上げる。事業責任者としてビジネスの全国展開をはかる。

1996年、大手貿易商社に転職。マーケティング能力を生かして、商社マンとしても力を発揮する。

2000年、東証一部上場のシューズメーカーに入社。ビジネスキャリアを生かし、担当シューズの販売数を2年で5倍に伸ばす。その間、全国のスポーツショップとの信頼関係を築く。多くの店舗から経営相談や、出店相談を受け、コンサルティングセールスとしても能力を発揮する。

同社退職後、出身地の名古屋へ戻り、小メーカーに2年勤務。

2008年、59歳で経営コンサルタントとして独立。スポーツ用品業界での経験と知識を生かし、業界に特化したコンサルティング活動を続ける。問題点の本質を見分ける能力と、どこまでも諦めない粘り強さを持ち、情況に応じた的確な提案が出来ることから、高い評価を得ている。

[執筆・セミナー]

月刊誌「商業界」への執筆や業界紙への執筆(中部経済新聞の連載、スポーツ産業新報連載)など、メディアへの投稿は多数。開業以来発行を続けているメールマガジン「頑張れスポーツショップ。業績向上100のツボ」は熱心な読者を持ち、それを店舗経営に反映させてるお店も多い。また、スポーツ店や起業家へのセミナーも毎月のように開催し、「時代を生き抜く3つのポイント」など、人気セミナーとなっている。

あいち産業振興機構外部専門家。ドリームゲートアドバイザー。
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ワン・トゥー・ワンコンサルティング ホームページはコチラ 
代 表 梅本 泰則 (うめもと やすのり)
〒462-0844 愛知県名古屋市北区清水3−4−18
電話番号 052-916-7108
相談・面談可能時間 9:00 〜 17:00
・経営コンサルティング
・営業活性化支援
・販売戦略策定支援
・経営計画策定支援
・新規出店支援
・店長育成支援
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■スポーツ店専門コンサルタントになった男の物語

私の起業の経緯ををご紹介したいと思います。

■サラリーマン絶頂期、そして・・・

学卒業後、最初に勤めたスポーツ用品の卸問屋では、私はやっかい者でした。そもそも、入社式に大遅刻をしてしまうことでも、仕事をなめていたことがわかります。ことあるごとに、会社の方針に反対したり、自分の主張をぶつけたりしていました。

そんな私ですから、会社は私を試そうとしたのでしょう。新規エリアの開拓や、新規事業の発足時には、いつもメンバーに選ばれます。私は試されているという意識もなく、メンバーに選ばれたことを喜んでいました。それが良かったかも知れません。結構、良い成果を出してしまうのです。

おかげで40歳のとき、新規に出来た海外事業部の責任者にもしてくれました。周りは「大変だな」と思っていたようですが、私はその仕事が楽しくてしょうがありません。そんなことで、会社の中では、そこそこ出世もしました。

この会社の社長になる気でもいたくらいです。絶頂期だったと言っていいでしょう。

ところが、世の中、そんなにうまくいくことばかりではありません。順調だったサラリーマン時代に、大きな転機が訪れました。47歳のときです。会社が倒産してしまいました。倒産の原因はいろいろありましたが、一番は当時の経営者を含めた社員の能力不足でしょう。妻には「大丈夫だ!すぐに次の仕事は見つかる!」と大見栄をきったものの、なかなか転職先が決まりません。転職先は、スポーツ用品の会社と決めていました。
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■転職時代

いろいろな会社に声をかけますが、採用されません。一か月を経過して、「もう駄目かな、別の業界で探しはじめよう」と思っていた時です。有名な貿易商社の役員さんから連絡がありました。話をしたい、ということです。

どうも私が従事していた海外事業に興味があったようです。話はとんとん拍子に進んで、その海外事業を引き継いでもらうことになりました。おまけに、海外事業に携わっていたメンバーも引き受けるということです。本当にラッキーでした。

結局私は、その会社に4年間お世話になることになります。この4年間は、私のビジネススキルを高めることが出来た、充実した期間でもありました。その後、私はこの会社の戦略変更に伴い、退職します。

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■次の転職先

もスポーツ用品を扱っている大規模メーカーでした。もうすでに50歳を過ぎていましたから、会社の私への期待も大きかったに違いありません。それなのに、私は「守り」に入ってしまいました。相変わらず仕事は楽しかったです。しかし、3年後には、その会社を離れることになります。

この時は、転職先を探す気持にもなれず、失業手当で生活を続けることにしました。資格をとれば、何とかなるのではないかと思い、いくつかの試験を受けます。しかし、うまくいきませんでした。

■とうとう、一年間の失業

保険期間が終わってしまいます。そこで、地元の名古屋に帰ることにしました。将来の独立を見据えてのことです。それまでは、働き口を見つけなくてはなりません。

ハローワークに通う日々が続きます。人材紹介会社にお願いに行ったり、求人募集に応募しますが、さっぱりです。ところが、ここでも私はツイていました。一ヶ月後、運よく

■小規模のスポーツ用品メーカーに就職

することが出来たのです。海外事業の責任者として採用されました。

2年間、この会社で働かせていただいた後、私は、とうとう独立開業をすることを決めました。

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■独立開業

そして、独立するときは経営コンサルタントで、とも決めていました。といっても、何の資格があるわけでもありません。行政機関による「創業塾」や「創業プラザ」で相談した結果、スポーツ店専門の経営コンサルタントになろう、と決めました。しかし、どうしたらコンサルタントの仕事が取れるか、さっぱり分かりません。

さまざまな勉強会や交流会に顔を出して、名刺を配りまくりました。とはいえ、そんなことで仕事が取れるほど、甘くはありません。私はふと気がつきました。スポーツ用品業界には、先輩コンサルタントN氏がいらっしゃいます。ワラをもつかむ思いで知人に頼み、N氏と引き合わせてもらったのです。

運よく相談にのっていただくことが出来ました。先輩コンサルタントN氏は、「コンサルタントで生きていくのは難しいよ」と言いながら、仕事を取る方法を教えてくれます。そして、私の窮状を見かねてでしょうか、大手スポーツ店の社員研修の仕事を紹介してくれるではありませんか。嬉しかったですね。

その後、N氏はいくつかお客さんを紹介してもくれます。おかげで、ようやく本格的なコンサルタントの仕事が始まりました。徐々に私のホームページやメルマガからも、問い合わせが入るようになってきます。

少しずつ、コンサルタントの仕事も増えていきました。とはいえ、まだ食べていけるだけの収入にはなりません。

昼間はコンサルタントの仕事を続けながら、

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■朝夕はアルバイトに出る、という生活でした。

電車代がもったいないので、どこへ行くにも自転車です。開業後、2年間はそんな生活が続きます。

しかし、そうこうするうちに、相談件数も増え、顧問先も増えていきました。

セミナー講師として呼んでいただいたり、新聞や雑誌への執筆の仕事も来るようになります。

メルマガを出し続けたこと、セミナーや勉強会で人脈を増やし続けたことなど、地道な活動が実ってきたのかも知れません。おかげさまで、今でも、何とかコンサルタントの仕事を続けられています。

ありがたいことです。これが私のコンサルタントになるまでの経緯と、その後の話です。

しかし、私にとっては、まだ道の途中です。私には、達成したい夢があります。その夢を達成するために、多くの方の力が必要です。ですから、頑張ってこの道を歩んでいきます。

ところで、どうして「スポーツ店専門」のコンサルタントになったのでしょう。
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■コンサルタントを目指したきっかけ

もちろん、33年間スポーツ用品業界にいたことも、大きな要因です。しかし、それよりも何よりも、スポーツ店さんと関わっていたいと思ったからです。私は、仕事を通じて、何百というお店とお話をしてきました。

その間、さまざまな相談を受けました。そして、その相談に乗っている時が、本当に楽しかったのです。そのきっかけは、Yスポーツさんではなかったかと思います。Yスポーツの社長との体験が、私をコンサルタントの道へ運んでくれたと言って良いです。

それは、私が35歳の時です。東京の居酒屋で、人を介してY社長を紹介されました。その日は、私が一方的に話をしたように記憶しています。あくる日です。Y社長から、私にお店に来るように連絡がありました。新幹線で3時間のところです。「わかりました」私は、駆けつけました。店舗運営の相談でした。

さいわい、改善するべきところはすぐわかりました。商品管理と陳列技術が問題です。Y社長は、私の意見をとりいれて、すぐに陳列を変更します。その結果、見違えるような売場になったのです。その時のY社長の喜びようは、今でも忘れません。

それ以来、商売上の相談があると、すぐにY社長から電話がかかってきます。「今から店に来てほしい」また新幹線で3時間です。私は、飛んでいきます。私の意見を待ってくれているのです。相談が終わると、本当に嬉しそうな顔をしてくれます。

そして、驚くような金額の注文をくれるではありませんか。商品を売り込まなくても、売上ができてしまうのです。これは、すごい経験でした。

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■コンサルタントとして独立

その後、私にはそんなスポーツショップが、いくつも出来てきました。Kスポーツ、Uスポーツ、Mスポーツ、Jスポーツ、思い出せば、ほんとうにたくさんあります。どのお店も、私の話や意見を気持ちよく受け入れてくれました。

夜を徹して話したことも、数多くあります。考えてみれば、この時、私が行ったことは、コンサルタントの仕事のようなものです。私には、この時間がたまらなく心地よいものでした。ですから、いずれはこんな仕事で独立が出来ればと、思っていました。

ところが、気がついてみますと多くのスポーツ店さんに元気がありません。これはきっと、全国のスポーツ店さんを元気にすることが、私の役目に違いない、と思ったのです。そんな思いに駆られて、スポーツ店専門のコンサルタントとして独立をした、というワケです。独立当初は、周りの人たちからよく言われました。

「スポーツ店専門だって?そんな狭いところを狙っても、成功しないよ!そもそも、スポーツ業界は景気が悪すぎるよ!」私は、こう答えました。「だから、私はやるのです!」

そして今、はっきりと言えます。本当にスポーツ店専門のコンサルタントになって良かったです。コンサルティングをすると、お店が元気になって行きます。嬉しいことです。

ですから、今後も頑張ってスポーツショップの皆さんを元気にしたいと思っています。

そして、私にはさらなる夢があります。

何でしょうか?それは、優秀な人材を育てることです。スポーツ用品業界を変革していける人材を育てることです。どうしてそんなことを思うのでしょうか?

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■ある人との出会いと私の夢

これにも、理由があります。そのためには、一人の人物の話をしなくてはなりません。その人に私が初めて会ったのは、入社面接の時です。社会に出て最初に勤めることになった、卸問屋の社長でした。

実は私がこの会社の入社試験を受けられたのは、親のコネです。もうすでに、正規の入社試験は終わっていました。ですから、たった一人の入社試験です。面接は社長室で行われました。面接官は、社長と常務の二人。

「社長のSです」太い声でご自身の紹介をされます。私は、その眼光に圧倒されてしまいました。恐ろしいくらいのオーラです。これが経営者というものなのか!20分くらいで面接は終わり、運よく、私はこの会社でお世話になることになりました。

それなのに、私はいい加減な社員でした。しかも、上司に歯向かう「えらそうな奴」でした。実に扱いにくい社員だったのです。ですから、左へ右へ、西へ東へと人事異動で飛ばされます。それでも、私はこの会社が大好きでした。S社長がいたからです。

この会社は、業界では後発でした。ところが、どんどん先発の企業を追い越して行きます。私が入社して5年もたったころには、全国でも有数な卸問屋に成長していました。S社長の先を見る目、実行力、豊かな発想力が、会社をぐいぐいと引っ張って行きます。

業界でも出色の経営者として、存在感を示していました。「自分は、こんな経営者になれるのだろうか?」そう思うと、私は、S社長のもとで仕事が出来ることが楽しくて仕方がありませんでした。

しかし、そんなS社長も、経営から身を引く時がやってきます。そして、その後S社長は突然亡くなってしまいます。本当に私は悲しかったですし、残念でした。S社長は、常にスポーツ用品業界を改革しようとしていました。社内の教育にも熱心でした。S社長が生きておられれば、業界にどんな改善を加えられるのだろうかと、いつも考えています。

私は、昨年、尊敬するS社長の墓前で誓いました。スポーツ店さんを応援して、世の中をもっと明るく元気にし、平和で活気のある社会にすることを。

そのために、私は、スポーツ用品業界を変革していける人材をたくさん出したい、と思っています。それが私の願いです。そして、それがS社長の遺志を少しでも継ぐことになると思っています。

しかし、それは一人の力で出来ることでもありません。仲間を増やして、協力していかねばなりません。私は、そのためにも、コンサルティング活動を続けていくことを決意しています。

どうか皆さま、ご支援のほど宜しくお願いいたします。

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■主催は栢野克己(かやのかつみ)
小さな会社専門の作家・講演家・セミナー講師。著書「やずやの秘密」「弱者の戦略」「小さな会社☆儲けのルール」「逆転バカ社長」はアマゾンの<中小企業経営>でベストセラー5位以内を10年間継続中。全国の商工会議所やアジアでの講演やセミナーは1300回を超える。福岡市出身。小倉西高校→立命館大学卒。ヤマハ発動機→リクルート→IBMリース→販促ベンチャー経て、東京で転職相談業を起業。しかし、実家が他人の借金1億円をかぶり、福岡へUターン。広告代理店の営業マンへ。借金返済のため、36歳で2度目の独立。当初は広告代理業だったが、本の出版で講演依頼が殺到。44歳から講演講師や小企業の成功事例研究に特化。小企業や起業の事例勉強会「九州ベンチャー大学」や分科会は23年継続で1000回を突破。小さな会社の成功事例を日本一知る男と云われる。ブログ+フェイスブック+YouTubeの再生回数は500万回を突破。趣味は世界一周。格安チケットで65カ国に渡航。200ヶ国渡航が夢。検索「かやのかつみ」で約10万件ヒット。
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